御厩長屋の二つ井戸


井戸人 飲めない井戸 最後の将軍の井戸
谷根千 墓参記録

 谷根千の一角、台東区池之端にこの井戸はあります。谷根千自体がコナンドイルの「失われた世界」を思わせる地域ですが、この井戸のある路地は、その中の「秘密の花園」と言って良い場所です。閑静な住宅街の曲がりくねった路地の奥の奥にあるご近所の皆さんの為だけの生活空間。 ですから、アラーキーの「人町」初め多くの写真集や東京の古い町をテーマにした本には頻繁に出てくる有名な井戸なのに、ガイドブックには一切載っていません。
 平成十二年の夏、発売されて間もない初代「IXY-DIGITAL」と森まゆみさんの「谷中スケッチブック」−ちくま文庫−をポケットに、私は谷根千の路地から路地へと歩き回っていました。やがて気が付くと、もうそこは谷根千の南のはずれ。そろそろシャワーとビールが恋しくなっていました。車を拾って動坂下の部屋へ帰ろうと言問通りに向かっていた時でした。ふと見つけた煉瓦塀の風情に引き込まれるように、この路地に入り込んだのです。 そして、路地奥にこの井戸を見つけたときの感動は今も忘れません。

 ・ニつ井戸のある路地
 NHKの『おしん』にも登場し、あまりに も有名な井戸。「二つあるのが珍しいでしょ」 と福岡あいさん。この一画は旧谷中清水町、 もと大河内子爵(その前は松平伊豆守邸)邸 内の家臣用長屋で、通称御厩長屋という。
「井戸のおかげで助かったこと?もちろん戦 時中は水道が頼りにならなかったから助かっ たわ。つい一年前、付け火でうちがポヤ出し たときも、近所のみなさんが飛び出してきて、 この井戸のおかげで大事に至らなかったの」
 少し下流にもう一つ井戸がある。
「この井戸は六軒で共同管理しています。一ヶ月 ごとに当番を交代して、井戸の周りを掃 除したり、水を漉す布を取り換ええたり。そう ね、泥野菜や樽、ズック靴を洗うのに便利」 と近所の奥さん。裏口が井戸に面している初 寿司の若旦那は、「おねしょしたシーツなん か自分であそこで洗わされたよ。夏は、ぞう きんで井戸の流しの栓つめて、小さなプール みたいにして遊んだもんだよ」。隣の井戸の土 屋八重子さんは 「今でも夏になるとビニール プールに井戸水張って遊ばせてるの。坊やも 近けりゃ来ればいいのに」とうちの赤ン坊に お菓子をくれた。 牧歌的な路地空間だ。


  地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の十六  −谷根千工房− 1988年発行 から









  私の手元には、この場所の現在の映像があります。 でも、あえて載せません。
  私は今、高速道路のインターの側で表通りにはたくさんの大規模店舗がある、
  緑と青空に囲まれた町に暮らしています。
  そんな人間に古い木造家屋を残せと叫ぶ権利はどこにもありません。
  住の安全と快適さはすべての人の権利です。
  でも、もう、この懐かしい風景には二度と会えないのです。




END